もりおか印刷由来

もりおか印刷由来

山口北州印刷は、山口活版所として1893年(明治26年)10月、
岩手県盛岡市に創業し120年以上の歴史を積み重ねてきました。

ギャラリー
  • 明治

    01 明治

    明治時代の内丸の社屋。明治43(1910)年に工場を新築

  • 大正

    02 大正

    大正14(1925)年、明治以来の木造社屋を改築、近代的印刷設備を整える

  • 春と修羅

    03 春と修羅

    大正13(1924)年、山口活版の支店として開業した大正活版所(花巻)が宮沢賢治の詩集『春と修羅』を印刷

  • 明治九年岩手県御巡幸録

    04 明治九年岩手県御巡幸録

    昭和15(1940)年、4色凸版による初のカラー印刷を含む「明治九年岩手県御巡幸録』を印刷

読みもの

草創からの盛岡印刷事情

  • 一、近世の印刷革命

    写真:『もりおか印刷由来』平成7年
    発行 発行:山口北州印刷

    一、近世の印刷革命

     織田信長が安土城を築き、キリシタン大名がローマに遣欧使節を派遣し、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した十六世紀の末、それまでの一枚刷の製版による木版印刷術に新風を吹き込む画期的な印刷術が伝えられた。鉛活字と銅活字である。
     鉛合金活字を鋳造し、顔料を油性ワニスで練って作ったインクを使い、押圧式の印刷機で紙に印刷する、十五世紀半ばにドイツの印刷職人グーテンベルクが考案した新しい印刷技術。いわゆる西洋の活版印刷術は、天正十八年(一五九〇)キリシタン宣教師ワリニャーノによって長崎に伝えられた。しかし当時はキリスト教を禁止しており、しかも江戸時代に入ると徳川幕府が鎖国政策をとったため、西洋の印刷術は長崎で部分的に使用されただけで一般化しないまま途絶えてしまった。

     一方、朝鮮で発達した銅活字と活字版一式は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の戦利品として文禄二年(一五九三)に搬入され、学問を好む後陽成天皇に献上された。天皇はさっそく「古文孝経」の印刷を命じ、その後、宮中で朝鮮の活字に倣った大型の木活字が彫刻され、慶長二年(一五九七)から「慶長勅版」とよばれる四書(大学、論語、中庸、孟子)の印刷物が次々に刊行された。
     この銅活字や木活字を用いる活字版印刷術は、徳川家康によって継承され、十七世紀初頭に「伏見版」「駿河版」と呼ばれる書物を生み出した。木切、字彫、植手、摺手などの印刷職工を京都から集め、城中の建物を印刷工場として、朝は卯時(午前六時)から夕方は酉時(午後六時)まで作業させたという(川田久長『活版印刷史』)。
     こうして十六世紀末に起きたわが国の印刷革命は、幕藩体制が固まるとともに西洋から伝わった活版印刷術を未消化のまま途絶えさせた反面、木活字による印刷術を発展させ、十七世紀前半の元和・寛永年中に各種の漢籍や仮名交じりの国書が印刷された。これを古活字印刷時代という。
     とはいえ、木活字版は組み版のまま保存してあるわけでなく、幾とおりもの組み版ができるほど大量の活字があったわけでもない。十七世紀半ばから上方や江戸で木製版による印刷物の販売がさかんになると、部数の限られた木活字版の刊本は武士や僧侶や豪商などの自給的印刷に限定される。ふたたび木版印刷が主流となり、庶民生活の知恵を記した「重宝記」や暦、浮世草紙や浮世絵などの印刷物がベストセラーになる。庶民が必要とした印刷物は、実用性や教訓性あるいは好色性をもつ、暮らしに密着したものだったのである。
  • 二、盛岡における印刷の源流

    写真:南部めくら暦の活版。新渡戸仙岳の所蔵する嘉永5年(舞田屋喜作)の再現印刷物の版と思われる。

    二、盛岡における印刷の源流

     盛岡築城と城下町の造営工事が始まったのは、宮中で「慶長勅版」の印刷刊行が開始された慶長二年のことである。慶長十五年(一六一〇)頃には盛岡城と城下の町造りがほぼ完成し、中津川に上の橋、中の橋、下の橋の三つの橋が架けられた。ついで元和年中(一六一五〜二三)に城下二三町の区画が定まると三戸城下の侍町人を移住させ、寛永十年(一六三三)第二十八代南部信直の時代に正式に盛岡城を居城とした。わが国の印刷史でいえば古活字印刷時代と呼ばれる頃のことである。
     時代が下って万治年中(一六五八〜六一)になると城下で馬市が開かれるようになり、藩ではこの頃、御釜師小泉五郎七や紙漉十次郎などの職人を京都や江戸から高禄をもって召し抱え勧業技術振興の推進役を果たさせている。また盛岡城下の町造りが完成した頃に来盛した近江商人によって、両替、質屋、醸造(味噌、醤油、酒)、古着、木綿、漆器、油、紫、海産物、砂金その他の商業活動が活発になった。

     江戸時代中期に入ると、明和八年(一七七一)三戸町に御稽古所が設置され藩士の子弟を教育する公的な教育機関が誕生し、四書五経などの漢籍が用いられた。また庶民に読み書きそろばんを教える寺子屋が城下に現れ、「往来物」と呼ばれる手習いの手本や読み物の需要が高まった。南部藩内で使用された往来物としては『手紙文』『藩内郡村名』『百姓往来』『庭訓往来』『商売往来』『金華山詣』『平泉往来』『女大学』などがあるが、これらの多くは仙台で印刷刊行されたものであった。
     しかし寺子屋に通学した者も全体からすればわずかであり、農民や町人の多くは文盲として放置されていた。そこで簡単な絵と記号を組み合わせて文字の読めない庶民のために考案されたのが、農耕や年中行事を表した「南部盲暦」であり、般若心経や和讃などを表した「盲心経」である。
     盲暦には、二戸の八幡家で考案された田山暦(これが江戸時代後期のベストセラー橘南谿の『東遊記』に紹介された)と盛岡暦とがある。盛岡暦は天明・寛政(一七八〇〜一八〇〇)の頃に盛岡城下生姜町の藤田家が田山暦を翻案上梓したのがはじまりで、その後、文化年間(一八〇四〜一八一七)に生姜町の木版師で刷物師であった舞田屋利作が一枚刷の暦に改良上木して販売した。
     いわば舞田屋利作は、盛岡城下で商業ルートの印刷物を扱った印刷職人兼出版者であった。
     一方、印刷の商業化の流れの中で武士や僧侶や豪商の自給的印刷に限定された木製活字による活版印刷術を盛岡藩内で開拓したのが、花巻の堀内純平・三九郎の双子の兄弟である。堀内兄弟は寛政十年(一七九八)頃、花巻城下で堀内左右の家に生まれた。純平は文政十一年(一八二八)、父に代わって花巻城に出仕し、御台所奉行などを務めたが、生来の腕の器用さから彫刻の道に進み、名を「政易」と改め、三九郎とともに木製活字の制作にあたった。
     そして純平兄弟は師と仰ぐ松川滋安らの指導を受け、種々研究を重ね、嘉永二年(一八四九)印刷機械による四書(大学、論語、中庸、孟子)をそれぞれ五〇部、計二〇〇部、五経を各三部、計一五部刊行して、花巻侍の名声を高めたという(花巻市文化財調査委員の佐藤昭孝氏の記述による)。
     現在、純平が彫刻した木製活字二〇〇個と、この活字で印刷した「孟子」一冊が花巻市の指定文化財となっている。また三九郎の遺作としては、幕末の慶応二年(一八六六)藩命により盛岡城本丸隅櫓で印刷した「王鉾百首」「雨夜灯」などがある。
     堀内兄弟は、盛岡藩における活版印刷の開拓者であり、明治の印刷革命を準備した先駆者であった。
  • 三、明治維新の印刷革命

    写真:当社に残る活版の活字。当社では活字を作って印刷会社に供給する事業も手掛けていた。

    三、明治維新の印刷革命

     盛岡藩で木活字による活版印刷物が印刷された頃、幕末の志士に精神的な影響を与えた吉田松陰が盛岡に巡遊し(一八五二)、泰平の眠りを覚ますペリーの黒船が浦賀に来航した(一八五三)。二百五十年間続いた幕藩体制がほころび、揺れ動く時代の中で、人々の目はより広い世界へ注がれるようになった。情報を正確に、しかも大量に伝達する印刷物への関心が高まった。
     このとき、従来の印刷技術を革新する印刷革命の主役として導入されたのが、鉛活字による西洋の活版印刷術である。鉛活字そのものは、戦国時代の終わりにいったんはキリシタン宣教師によってもたらされていた。しかし幕府の鎖国政策によって普及発展することを阻まれた。というよりも、十七世紀の日本は、西洋の活版印刷術を導入し、自分たちの力で技術開発を進めるだけの下地をもっていなかったのである。

     ところが今度は違っていた。ペリーが浦賀にやって来た頃には、武士や豪商だけでなく庶民の教育レベルが向上し、日本が鎖国している間に西洋で開発された鉄製印刷機や蒸気機関を使ったシリンダー印刷機、輪転印刷機などの新しい印刷技術を導入する準備が整っていた。
     その先鞭をつけたのが、長崎でオランダ通詞をしていた本木昌造である。本木昌造は、嘉永元年(一八四八)貿易品として持ち込まれた西洋の活版印刷機や活字類を購入したのをきっかけにして西洋の印刷技術の導入に取り組んだ。幕府が日米修好通商条約によって神奈川、長崎、函館を開港する一方で、安政の大獄で吉田松陰らを処刑した安政六年(一八五九)、本木昌造は欧文を鋳造活字で、和文を連刻木活字で印刷した『和英商売対話集』を印刷刊行した。
     そして十年後の明治二年(一八六九)、アメリカ人宣教師ウイリアム・ガンブルから電胎母型製造および活字鋳造技術の指導を受け、明治三年(一八七〇)長崎新町に「活版製造所」を創設。同年、門弟を派遣して大阪に「活版社」、横浜に「横浜活版社」を興し、わが国最初の新聞『横浜毎日新聞』(木活字)を創刊した。
     またこの間に明朝2号活字、4号活字を完成させ、福沢諭吉の『学問ノススメ』第一篇が刊行された。明治五年には、門弟を東京に派遣して神田に長崎新塾出張活版製造所を設立した。
     太陽暦が実施された明治六年(明治五年十二月三日を明治六年一月一日とした)になると山梨県、新潟県、三重県などでも本木系4号活字を使った県報が印刷発行される一方、政府の勧工寮が活字の販売を始め、小西六商店が印刷インキの輸入販売を開始した。東京新製活版所のように独自に活字を鋳造して印刷物を刊行する活版所も現れた。
  • 四、盛岡における洋式印刷技術の導入

    写真:活版印刷では一文字一文字元となる「版」があった

    四、盛岡における洋式印刷技術の導入

     西洋の印刷技術に対する関心が急速に高まり、炎のように広まった明治初期、盛岡でも時代の流れと並行して印刷革命が起きた。
     明治四年七月、「時勢が変わったので子供たちを東京に出して修業させてはどうか」という意味の手紙が東京京橋で洋服屋をしていた四男の太田時敏から盛岡の新渡戸家に届いた。この手紙に同感した祖父は、九歳になる孫の稲造を上京させることにし、翌月稲造は盛岡を出発した。稲造は十一日間かかって徒歩で東京に着き、太田家の養子となり、翌年本郷の英学塾「共慣義塾」に学んだ。

     これは、「われ太平洋の橋とならん」と語った新渡戸稲造の少年時代の逸話であるが、実は少年稲造の上京には親戚の堀内定八の長男政業、四男政固(十六歳)兄弟らが同行。政業は稲造と同じ共慣義塾に学んだ。共慣義塾は南部藩侯が経営する英学塾で、藩侯は明治維新に際して秋田戦争で敗れた屈辱を痛感して、知識を世界に求め、人材を養成しなければならないと考えてこれを創設したという。
     この英学塾で堀内政業は、洋学を学びながら活版製作係となり印刷術を身につけて盛岡に帰郷し、明治六年八幡町で東北最初の洋式活版所「九皐堂」を開業した。またこの年、呉服町で小野組の番頭川越勘兵衛が県の意向を受けた主家の命により活版事業(日進社)を始めた。
     両者がどのような活字を使ったのか、インキや印刷機械はどうしたのか、くわしいことは分からない。が、わが国で活字や輸入インキの販売が始まったばかりの明治六年、盛岡の印刷産業が創始されたのである。
     このことは、当時全国で人口順位が二十六番目の都市であった盛岡(人口三万余)の文化受容力の高さを物語っている。すなわち明治六年の盛岡には若者たちに学問を普及する目的で書籍を展覧した「求我社」(鍛冶町田鎖高景宅)が設立され、公教育の場として仁王学校(現仁王小学校)、盛岡学校(現城南小学校)、厨川学校(現厨川小学校)などの義務教育機関、藩校作人館を改めた共立郷学校、郵便役所(明治八年郵便局と改称)や勧業場などがあり、印刷産業が発展する土壌ができていたのである。
     さらに視点を変えて言えば、江戸時代後期から幕末にかけて盛岡藩で開発された活版印刷の技術や大島高任が開発した製鉄技術、藩学校作人館や寺子屋における教育の普及、それらの技術や教育の蓄積があった。それが、明治維新の印刷革命をいち早く盛岡へ導入することを可能にしたのである。
  • 五、印刷業の分化と隆盛

    写真:創業時代の内丸の社屋。右は菊屋旅館、元北ホテルの前身。

    五、印刷業の分化と隆盛

     明治維新の動乱の中で導入された西洋印刷技術は、文明開化の流れとともに急速に発展する。明治七年(一八七四)には紙幣寮が凸版彫刻師、凸版摺師、銅版摺師、石版摺師などの印刷技術者をヨーロッパから招き、地券状や煙草印紙の原版を製作し凸版印刷の端緒を開く。明治九年には京橋に現在の大日本印刷の前身である秀英舎が設立され、明治十年には読売新聞が紙型鉛版による新聞印刷に成功。明治十四年には東京および横浜で「活版印刷営業組合設立願」が提出されている。
     盛岡においても明治九年七月、川越勘兵衛が県内初の新聞『巖手新聞誌』を印刷刊行した。この新聞は活字の不備から一号で廃刊されたが、翌月『日進新聞』と改題して菊版一枚刷四ページの新聞を発行した。同紙の発行人は川越千次郎、印刷人は小原徳太郎、発行所は日進社、編集スタッフは矢幅政教、大江哲郎、太田豊年、江刺清臣らで、毎月一と六の日の月六回刊行され、定価は一枚一銭であった。

     明治十年代に入ると、自由民権運動の高まりとともに新聞、雑誌が相次いで発刊される。明治十一年六月日進社が『巖手学童雑誌』(月三回発行、一カ月十一銭)、同八月求我社が『盛岡新誌』(月二回発行、一冊二銭五厘)、明治十二年五月八幡町の公明社が『巖手繪入新聞』を発刊。
     これらの動きが契機となって政治評論、教育、文芸その他の言論出版活動がさかんになる。明治十二年紺屋町に活版の養成社、銅版および活版の又玄社が開業。新聞社としては明治十七年五月、『日進新聞』の編集スタッフだった大江哲郎が日進社の経営権を譲り受け、印刷機械や活字を新しく購入して『巖手新聞』を発刊する。明治十八年四月には九皐堂の堀内政業が『巖手学事彙報』、明治十九年には又玄社の横井顕行が『学藝雑誌』を創刊する。また同年、盛岡活版所が川越活版所(日進社)から諸器械、活字等を譲渡され開業する。この流れは明治二十二年の盛岡市制の施行(仁王、志家、仙北、東中野、新庄、加賀野、山岸、三ツ割の八村および上田村の一部)、明治二十三年の盛岡駅開業によってさらに大きなものになり、盛岡の印刷業はその裾野を広げてゆく。
     が、その一方で明治二十年代後半になると、経済活動の拡大につれて産業の分化が起こる。新聞は情報産業として発展し、活版所は印刷産業としてその規模を拡大する。この印刷業の分化と隆盛を象徴する出来事が、大江哲郎の印刷業での失敗と山口徳治郎の印刷業への進出である。
     大江哲郎は、明治九年の『巖手新聞誌』に編集人として参加して以来、新聞の編集発行に深くかかわってきた。明治十七年には自らが持主兼印刷人となり『巖手新聞』を発行する。しかし二年後、「明治以前の夢」という記事が官吏侮辱罪に問われニカ月ちかく収監される。三十二歳のときである。このため同紙は廃刊となる。かわって三十歳の坂本安孝が持主兼印刷人となり『巖手日日新聞』と改題して新聞を発行する。坂本安孝は、求我社同人として『盛岡新誌』で自由民権運動の論陣を張ったことのある青年だが、のちに九十九銀行の頭取あるいは『巖手日報』の経営者として活躍した人物である。
     その後大江哲郎は「巖手日日新聞』編集人として活動するが、明治二十六年(一八九三)七月、肴町の豪商渋谷善兵衛が所有する渋谷活版所の経営権を譲り受け、再び印刷業に乗り出す。しかしすぐ経営に行き詰まる。実業界に転じて新聞の経営者として成功した坂本安孝と違い、大江哲郎は根っからの新聞編集者であったようである。言いかえれば、活版所が新聞雑誌を発行し、印刷人が編集人を兼ねるといった、いわば印刷産業と情報産業の蜜月は終わっていたのである。
     同年、大江哲郎は活版所を山口徳治郎に譲る。山口徳治郎はこのとき三十五歳の働きざかり。それまで馬町の油商村井三治の家に奉公していたが、資金的な面から大江に代わって渋谷活版所を経営することとなったのである。しばらくはそのまま営業を続け、肴町から鍛冶町裏に移り大江活版所と名を変えてからも、印刷業に進出するかどうか迷っていた。日清戦争(明治二十七、八年)のさなかであり、事業が思わしくなかったこともあって、一時は売却も考えたという。
     しかし長男精一郎(二代目徳治郎)が生まれた明治三十年前後から真剣に取り組むようになる。明治三十年三月十六日の『巖手公報』に、内丸十番戸へ移転し「在来ノ活字ニ貮拾壹万ヲ加へ自今一層改良廉価ヲ以テ」引き継ぐ旨の「活版引継広告」を載せる。本格的営業を宣言し、名前も山口活版所と改める(山口北州印刷の前身)。
     当時、新しい官庁街として整備された内丸には県庁や市役所、学校、新聞社、活版所その他が集まっていた。内丸で営業を始めた山口活版所はその後、官公庁や学校の印刷物を数多く手がけ、明治四十年四月から今日まで「岩手県報」の印刷を担当している。また明治末には「手まわしカスチング活字鋳造機」を導入して活字鋳造を営業品目に加えて他社に供給するなど、盛岡の活版印刷所として着実に発展する。山口徳治郎の経営者としての力量もあるが、印刷産業そのものの隆盛が彼の成功を大きく後押ししていたのである。
  • 六、盛岡印刷地図(戦前)

    写真:明治36年発行『岩手県現行令達類集』山口活版所 印刷発行(岩手県立図書館所蔵)

    六、盛岡印刷地図(戦前)

     「明治ハイカラもの店・生業一覧」(『図説盛岡四百年』)によれば明治三十年代の盛岡では、次のような活版所が営業している。
      内丸(九皐堂)  堀内活版所   肴町(北水堂)  岡本活版所
      呉服町(藤陽堂) 富士屋印刷所  紺屋町(又玄堂) 横井顕行
      穀町(晩成社)  松岡峯次郎   肴町       杜陵活版所
      紺屋町      岩手活版所   呉服町      盛岡活版所

     このうち現在まで続く富士屋印刷所は、明治二十八年に工藤倉吉が創設。銀行の預金証書や株券、醤油、酒などの商標など民間企業印刷物を数多く手がける。またここに名前が出てこないが、明治三十七年八日町に開業した川口屋荷札店(川口印刷工業の前身)は、大正時代に入ると全国有数の荷札製造販売会社へ発展し、活版石版印刷へも進出する。
     さらに大正十一年(一九二二)に赤沢亦吉が紺屋町に杜陵印刷所(杜陵印刷の前身)を設立し、大正十四年に九皐堂で技術を身につけた橋本茂一郎が油町に活版専門の橋本印刷所を設立する。また同年、岩手日報社と岩手活版所の労働者五十名によって県内初の労働組合「盛岡印刷労働組合」が結成される。
     こうして盛岡の印刷地図はほぼ完成する。盛岡に洋式活版所が設立されてから約五十年目のことであった。
[本社・工場]
〒020-0184 岩手県盛岡市青山4丁目10番5号 TEL.019-641-0585(代表) FAX.019-648-1020 MAP
[ 東京支店 ]
〒162-0845 東京都新宿区市谷本村町2-11-3F TEL.03-5206-3500 FAX.03-5206-3503 MAP